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第1話 冷たい朝の公爵夫人④

مؤلف: なつめ
last update تاريخ النشر: 2026-06-24 15:07:16

「でも、午後には伯爵夫人がいらっしゃるし……」

「だからこそです。人前では無理をなさるのですから、その前に少しでも休まなければ」

 アイダの声音はやわらかいが、譲る気配がない。リュゼリアは視線を落とした。

「……最近、少し疲れやすいだけなの」

「その『少し』が、もう少しではなくなっております」

 胸の奥を、別の意味で刺される。

 疲れている。確かにそうだった。以前はこれほど長く机に向かっていても、午後になれば庭へ出て薔薇の様子を見る余裕があった。夜に刺繍枠を手に取ることもできた。けれどいまは、午前のうちから骨の芯に砂が詰まるような倦怠が広がっていく。

 でも、とリュゼリアは思う。

 もし自分が倒れたら、この屋敷の誰が困るのだろう。アイダは悲しむだろう。古くからの侍女も何人かは心を痛めるかもしれない。だが多くの者にとって、それは「主人のひとりの体調不良」にすぎない。公爵夫人が一日や二日臥せったところで、当主であるヴィルレオの生活は大きくは変わらない。

 そう考えてしまう自分が、たまらなく惨めだった。

「少しだけ、後で休みます」

「必ずでございますよ」

「ええ」

 約束をしたところで、廊下の先から来客を知らせる足音が近づいてきた。

     ◇

 午後、応接間には春を先取りした花々が飾られた。

 まだ外では風の冷たい季節だが、温室で咲かせた白いアネモネと淡桃のラナンキュラスが、丸い銀の花器のなかで柔らかく揺れている。暖炉では薪が爆ぜ、その香ばしい匂いに茶葉の蒸れる香りが混じっていた。厚手の絨毯は足音を吸い、窓辺のレース越しの光が部屋全体を淡く明るくしている。

 ラズウェル伯爵夫人は、豊かな栗色の髪を高く結い上げた華やかな女性だった。年は四十を少し過ぎているはずだが、笑うたびに目元へ寄る皺すら愛嬌に変えてしまう人である。社交界において声も影響力も大きい。

「まあ、リュゼリア様。お会いできてうれしいわ。相変わらずお美しくていらっしゃること」

「恐れ入ります、伯爵夫人。本日はお越しくださりありがとうございます」

 互いに微笑み、礼を交わす。その一連の動きは、長年磨いた舞踏のように滑らかだった。

 茶が注がれ、焼き菓子が運ばれる。伯爵夫人は公爵家の温室で採れた柑橘のマーマレードを添えたタルトを気に入り、何度も褒めた。リュゼリアは柔らかな相槌を打ち、慈善茶会の趣旨や招待客の顔ぶれ、寄付先の選定について意見を交わす。

「今年は王都の孤児院だけでなく、北の療養院にも目を向けたいのです。冬の終わりは、体の弱い方にはとくに厳しい時期ですから」

 リュゼリアが言うと、伯爵夫人は感心したように頷いた。

「あなたは本当に細やかですこと。そういうところが皆さまに慕われる所以なのね」

 皆さまに慕われる。

 その言葉の響きに、リュゼリアはかすかに胸がざわついた。笑顔は崩さないまま、カップの持ち手をそっと持ち直す。

「わたくしにできることなど、ささやかなものです」

「そんなことありませんわ。ディルクレイド公爵家の茶会が毎年あれほど行き届いているのは、あなたのお力あってこそでしょう。……もっとも」

 伯爵夫人は言葉を切り、ややいたずらっぽく目を細めた。

「公爵様は、相変わらずとてもお忙しいご様子ね」

「ええ、領地のことも王都のこともございますから」

「本当に、氷の方ですこと。うちの娘など、若いころ一度お目にかかって、一週間は怖がっていたのよ」

 伯爵夫人は笑ったが、その笑いには社交特有の軽い探りも混じっていた。

「でもね、不思議ですの。あなたが隣にいらっしゃると、あの方の冷たさも少しやわらいで見えるのだから」

 リュゼリアは、喉のあたりで微笑みを止めそうになるのを感じた。

 やわらいで見える。

 見えるだけだと、言えたらどれほど楽だろう。

「そうでしたら、嬉しいことです」

 無難な答えを返すと、伯爵夫人はそれ以上踏み込まなかった。踏み込まないのが礼儀であり、同時に残酷でもある。貴族の社交とはそういうものだ。見えるものだけを賞賛し、見えないひび割れには触れない。

 茶会は和やかに終わった。

 伯爵夫人を見送り、応接間の扉が閉じられた瞬間、リュゼリアは誰にも見えないように小さく息を吐いた。背筋はまだ美しく伸びている。だが、それを保つために使った力が一気に抜け、視界の端が少し揺れる。

「奥様」

 アイダが駆け寄る。

「平気よ……少し、座れば」

 そう言いながらソファへ腰を下ろした途端、こみ上げてきた咳を堪えきれなかった。

「っ、げほ……っ、げほっ」

 胸の奥から引き剥がされるような咳だった。喉が焼ける。息がうまく吸えず、肺が細く潰れるような感覚に襲われる。アイダがすぐにハンカチを差し出した。

「奥様、こちらを」

 口元を押さえ、何度か咳き込んだあと、ようやく息が繋がる。暖炉の熱が近いはずなのに、指先はひどく冷たかった。

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